成蹊大学新聞会ブログ

成蹊大学新聞会(SeikeiUniversityPress)のブログです。

編集局出張通信。―ミナマタとフクシマ、被害を妥協するということ―

こんにちは。やすさんさんです。

 

今日は編集局出張通信(やすさんさん版)をお送りします。

 

今回の編集局出張通信は、熊本県水俣市で行われました。水俣病患者認定訴訟の水俣・新潟合同集会を簡易版ですが、お送りしたいと思います。

 

 

 

 

 

集会の冒頭、長年にわたって水俣病の現地調査を行い、現在の訴訟でも証言を述べている原田正純先生が挨拶されました。

挨拶の中で原田先生は、裁判が長期に渡るのはなぜなのかを繰り返し指摘していました。

患者は胎児性患者も含めて高齢化している。裁判の間に次々亡くなっている現実があり、亡くなると裁判による事実確認はうやむやになり、露と消える。高度成長が生み出した重金属汚染が歴史の闇に消えることは、記者も国にとって将来マイナスだと考える。

P1080393 - コピー.JPG

 発言する原田正純氏(やすさんさん撮影)

 

 続いて、関西訴訟、新潟水俣病弁護団が発言しました。水俣と新潟の原因企業の現在の差を指摘しておられました。また、当事者間でも温度差があるようでした。

 

 

続いて、NPO法人水俣病協働センター・水俣病被害者互助会事務局の谷洋一氏らが発言。

谷氏の発言で興味深かったのは、水俣市長が動画共有サイト福島第一原発放射能汚染による福島の風評被害への応援メッセージを載せたことにふれ、「風評被害よりもまず、健康被害の調査だ」と述べたことだった。

今なお、水俣病健康被害がどの範囲なのか確定できていない状況だ。原因企業が水俣湾の百間港から北の水俣川河口に排水口を移動させて以降、汚染は八代海一帯に広がったとの指摘がある。また、八代海水俣湾の魚を行商が内陸まで運んでいたともいわれる。

どこまでが範囲なのだろうか? この問いはいまだに確定できていないのが現実だ。

 

風評被害はあってはならないものだが、福島第一原発の事故は現在進行中の事案であり、どのくらい周辺地域に放射能汚染があるのか調査した上で、ここまでは安全だと医学的に化学的に多角的視点から分析して暫定的でも確定した後に、なお風評被害が発生するなら問題だが、国としてしっかりとした調査も行わずに風評被害だけを悪玉として排斥するのは順番が違うのではないだろうか。

P1080408 - コピー.JPG

一番右が谷洋一氏(やすさんさん撮影)

 

 

 記者の思うこと。

フクシマとミナマタ。両者を繋ぐ橋があるとすれば、被害が実態化した後の調査の不徹底が挙げられる。

ミナマタでは国として健康被害の実態調査を行おうとはしない。これには国家賠償を出来る限り小さくするためだと指摘する声もある。だが、実際のところ患者らは金が欲しいのかと言われればそうでもない。生活に金銭は必要不可欠であるからして、生きる上で必要な金を議論の対象とすべきではないと考える。1995年の和解時、熊本の水俣病弁護団と患者の支援者が激しい議論をしたといわれる。

「金の問題ではない。患者は人間回復を求めているんだ」との支援者に対して、弁護団は「早期に解決しなければ患者はどんどん死んでいくんだ…」

 患者が死ぬ。患者は人間回復を求めている。どちらも重要なことである。あの和解は妥協の産物だった。現在、国は補償ではなく救済としてミナマタに対応している。国にとってはミナマタは過去のことであり、被害を拡大した責任はなく、患者を助けるといっているかのようだ。これに被害者らは反発している。

「加害者が助けるとはどういうことか?」

このようなことがまかり通るのが今である。

 

フクシマはどうか。放射線の知識を我々は持ち合わせていない。国がどんどん基準値を引き上げるなどしたため、不安は募るばかりだ。一方で、被害の実態は事故が進行中であることもあって、確定することはできないが、危険かどうかは国際基準やこれまでの研究から推測することは可能なのではないか。危険であると判断したことで産業や農業が疲弊する可能性は十分あり得るが、健康被害の被害者が続出するよりは良いのではないだろうか。

しかし、時間はないのである。人はいずれ死を迎えてしまう。もちろん、国は疲弊した産業や農業にバックアップとして補償金を投入すべきでだろう。救済ではなく補償としてである。

ミナマタは95年の「和解」以降、過去のものとなり迷走した。フクシマはそれを繰り返してはならない。被害に関して妥協してはならないのである。

 

 

 

つたない記事でしたがありがとうございました。簡易版ですので、いろいろ加筆・修正して再アップしますのでお楽しみに。